昭和四十九年十一月二十二日 朝の御理解


御理解 第六十四節 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」


 「遠路のところを参って来る。」皆さんの場合もそうです。遠いところを、しかもこの寒い中に、しかもこんなに朝早くからお参りをして来るのであるから、ということでしょう。ですから、ただお参りをして来た、お願いをして来たと言うだけではつまらんじゃないかと。折角お参りをして来るのであるから、身に徳を受けることの為に、遠路のところを、またはこの寒いところを、こんなに朝早うからお参りをして来るのであるから、ね、信心をさせて頂かなければ頂けない、人間の幸福の元であるところの徳を受けてと。そのお徳を受けるために、お参りをして来いよ、という御理解だと思います。
 ところが、たいがいの人が、このことをお願いせんならんから。または、お参りはしておるけれども、お徳を受けるような頂き方、お徳を受けるような受け方、またそれが身に付いていくのが有難いから、楽しいからお参りをしておるという人は少ない。折角、信心をさせて頂くなら、しかも遠路のところを、しかもこんなに朝早うから寒いのにお参りをして来るのであるから、本気でお徳を身に付けさせて頂こう。いうならそういう道を教えてもらう。そういう話を聞かせて頂くのでなからなければならない。
 「徳を受けて、身しのぎをするようになれ」と。ということは、不自由のない生活に入れということだと思います。身しのぎ。徳を受けて、身しのぎをするようになれ。いうならば徳を受けて、人間の幸福の条件のすべてが足ろうてくるようなおかげを頂けよ、ということだと思います。
 身しのぎということについては、いろいろ言われておりますけれども、今日は、身しのぎということを、今言うような意味で聞いて頂いた。不自由のない、年をとりましても、まだ若い者の手を借りんで済む。自分で自分の<自由>くらいは結構やれる。これは身しのぎです。ね。誰にも世話にならんで済む。自分で自分の<自由>ぐらいは出きる、とこう申しましょう。そういうのを私は身しのぎというのだと思う。
 信心させて頂いて、身に徳を受けて、そして自分で自分のことぐらいは、お伺いが出きるぐらい。いちいち参ってお尋ねをせんでも、神様がお知らせを下さるぐらい。<そういうのが>身しのぎです。ね。わざわざお取次を頂かんでも、わざわざ参ってこんでも、自分で自分の家のご神前で御祈念をさせてもろうて、神様からいろいろとお指図を頂けれるぐらいになる。これもやはり身しのぎです。
 けれども私は、何というても、ここに「遠路のところを参って来る」ということです。「遠路のところを参って来る」ということは、どういうことかというと、皆さんの場合もそれが言える。まあ近くから参って来る方もあるけれども、それはこの寒いのに、この朝早うからという意味なんです。ね。折角、お参りをして来るのであるからというのです。 だからお参りをして来なければ頂けないもの。それは信心して、身に徳を受ける道、または教えを受けるということなのですから、やはり身しのぎということは、今日私が、聞いて頂いておるように、信心させて頂いて、何不自由のない、いうなら生活に入っていくことだと思います。
 それには先ず、身に徳を受けなければ。身に徳を受けて、と仰っておられる。徳を受けるため。そりゃ問題はいろいろありますよ。お願い事もいろいろありますよ。またそのお願い事がです、ね、そのお願い事があるからこそ、朝早起きも出きるのだし、どうでもという一心があるからこそ、お参りも出きるのでありますけれども、ね、そういうお参りしなければおられないほどしのものをもって、お参りをして来るのであるから、この際、徳を受ける道を習うとこう。徳を受ける信心を体得させて頂こうと、いわば念願しなければいけないということです。もう私は、このおかげいっちょう頂きゃよいというようなことではいけんということ。ね。
 また、事実そうです。お金に不自由しとる。体が弱い。人間関係の上でも苦労しとる。そういう例えば、難儀の様相というものは、それぞれ違いますけれども、難儀ゆえに、おかげで朝参りが出きる。だからもう難儀ゆえに朝参りも出きる。だから折角、朝参りが出きるのであるから、身に徳を受ける修行をしなきゃいけん、と言っとられる。
 人間は、だんだんあれこれが整うて参りまして、やあやあ言わんですむようになりますと、朝参りせんならんと思うとるけれども、やはりお参りが億劫になったり、もう家から拝んどこう、ということになってくる。これでは身に徳が受けられない。
 だんだんお参りさせて頂くようになって、これがお徳であろうか、身しのぎというものであろうかという、いうなら極楽を感じる。不自由のない生活が出きるようになる。ね。それが有難いのであり、それが楽しいからお参りが続く。これはもういよいよ有難い。
 合楽でもそういうような方たちが、だんだん出来てきた。二十四年、いわば椛目、合楽を通して、朝参りが続いておる方たちがずいぶんあります。その方たちなんかはもう、やめろと言うてもやめられない。何故かというと、身に徳がついていっておるのが、自分でも感じられる。ね。
 ということは、だんだん一年一年有難うなると仰るが、本当に有難うなっていきよる。それが有難いのであり、楽しいのであり。ね。そういう「信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」と仰る。もう限りがない天地の大きな親神様の心に添い奉る。一歩一歩、その神様に近づいていけれる。そのおかげが受けられるという印を現しておられるのが教祖金光大神様。その教祖生神金光大神様のご修行に神習わせて頂いて、その生神金光大神に一歩でも近づいていこうという信心にならなければいけない。
 最近では合楽で、表行ということをいたしません。いやもうしてはならない。もし弟子の中に表行をする人があるなら、もう私の弟子とは言わん。いうならば破門をする。というぐらいに私は厳しく言っておるわけなんです。ね。水をかかったり、断食をしたり、絶ちものをしたり、ね。けれども信心に修行はつきものですから、ね、せにゃいけません。修行、信心に修行。例えば、こうしてお参りをして来ることも修行です。
 そこでそんなら表行ではなくて、心の行、心行をさせてもらわなければならん。まず、「寒中不平不足を言うてはならん。心行とは不平不足を言わんこと」と言われるくらいですから。
 天気の不足を言う。子供に不平を不足を思う。家内に、主人に、いつも自分の心の中には不平がたぎっとる。そこでそれを言わんですみ、思わんですむというような、やはり稽古をしなければいけません。ね。だんだん不平不足を言わんですむようになり、思わんですむようるなる。
 私はこの頃、表行を合楽の教会から一掃した。途端にです、いうならば修行を、何かやめてしまったような感じがしますね。これは私は頂き違いだと思います。修行ということは、もう信心には絶対つきものです。信心に修行はつきもの。それにお徳がつく。そのお徳に伴うてくるところのおかげが受けられる。
 だんだん自分の心が神に向こうて進んでいくに従って、心の中に不平不足ではない、不平不足を(テープが切れている)
 昨日、ある教会の先生からお手紙が来た。自分のところに、年に五回ぐらい、ちょっとした教会の新聞を、「道のともしび」という、それを同封してあった。私は知らなかったけれども、この方のところの教会のご信者さんが、お参りをしてみえて、私どもの教会の「おかげの泉」を、宮崎県の教会ですから、ここにお参りされることが出来ません。それで送ってくれと言うてあったらしいですから、こちらから送っておるわけなんです。それをうちから、お金を頂かずに送っておるというふうに思われたらしいんですね。「おかげの泉」を送ってもろうて、【 】のお恵みを頂いて有難い、ということが書いてある。
 短い文ですけれども、実に頭の良い先生らしい。例えば、まだ少し読ませて頂いただけですけれども、実に皆誰だって合点がいくようなことが書いてある。あんまり分かりやすく、分かりやすくというか、信心というのは合点のいくことばかりではないです。実を言うたら、分からんことばかりのほうが多いというのが信心です。そんなに簡単に分かるごたる信心ならばたいしたことないです。おかげも。お話を頂いても頂いても分からん。それでもそれが少しずつでも分かっていく楽しみ。限りない分からないことに取り組んでいく。だから限りないおかげにつながる。
 もう読ませて頂いとって、もう実に皮肉なことが書いてある。おたくの「おかげの泉」のような、私のは奇跡は現れませんけれども、といったようなことが書いてある。
 けれども私は、これを読み終わらせて頂いて、もう四時のご祈念でしたから、ちょうどそのことをお願いさせて頂いた。だから、はがきですぐ、頂いたお礼はあげると同時にです、こういう頭の良い、素晴らしい、筋の良い信心を頂いておられる方がです、本気で合楽の信心を、いうなら皮肉な見方ではなくて、頂いてくださったら、素晴らしい先生が、素晴らしい教会にご比礼が輝くようになるだろうと思いましたから、そのことを神様にお願いさせて頂いた。
 まあ以前の私なら、そげな、それこそ皮肉たっぷりなことを書いてあったら、恐らく返事も出さないでしょう。ね。ましてこん奴がと思うかもしれません。けれどもやはり、皮肉を言われても、素晴らしい先生であることだけは感じられる。だから、その方が本気でいうなら今日の御理解で言うなら、徳を受けて、身しのぎの出来るような先生になられたら素晴らしかろうと思うから、願わせて頂いた。
 そしたらご心眼に、『小さい子供の日傘』を頂いた。というのは、ご信者がお参りをして来る。自分自身でもそうでしょうけれども、暑い時に、ちょっと日除けぐらいにはなるけれども、もし雨が降ったら自他共に、いうなら濡れしぼたれにならなければならない、ということです。ね。
 傘一本で開かれる道と仰る、その傘一本というのは、降っても濡れない、照っても暑い思いをせんですむような傘でなければつまらん。例えば、御結界という所は、いうなら人の難儀なものを取次がせて頂く所ですから、苦しみを取り除かせて頂く所ですから、いうならば公衆便所と同じことだ。ですからここには大小便は【 】いけないように、どんな難儀な問題であっても、大きな問題であっても、もういうならば人が助からんというような場合であっても、神様にお願いをするのであるから、無限の神力にすがっておかげの頂けれるようなお取次が願えれる所だけれども、そういう程度の信心では、もうちょいとした事、小便的なものだけしか行けない。大小便がそろうていないという意味なんだ。
 だから、このように頭の良い、筋の良い素晴らしい先生であればあるほどにです、おしいなあ、もうひと押し、これに合楽の信心を本当に分かってくださることになったら、今日の御理解で言うならば、お徳を受けて、身しのぎが出来られるようになるだろう。そしたらそこにまた、たくさんな信者氏子が助かっていくことだろうと思わせて頂いたから、お願いをさせて頂きました。
 こういう例えば、だんだん心というものはね、いっぺんに出来るものじゃないです。皮肉を言われりゃ腹が立つ。それが普通です。けれども皮肉を言われれば腹が立つどころではない。その皮肉の言い具合が素晴らしか。ね。ですから、この人は頭も良いし、筋も良い、しかもここに小さい新聞のようなものをひとくだり読ませて頂いたが、なかなか誰でも分かるような、合点のいくような素晴らしいお話がしてある。
 「おかげの泉」をご恵贈くださり、有難く御礼をいたします。神徳かくかくとして、まことにご比礼けんがんにあまねくお喜び申し上げます。今後とも、よろしくお願い申し上げます。おたよりのごとく、御誌(おんし)のごとく、世の人に奇跡を与えること。翻って私が、きままに書きました「道のともしび」。時間のある時に発行するだけですので、年に五回ぐらいでしょうか、全く奇跡を起こしません。ただ人間を神の子として大切にする心は生み出しておるようであります。というような文面です。
 あなたのところの新聞は奇跡を呼ぶと言われるけれども、私のところのは奇跡を呼ばんと。けれども、それよりかもっと素晴らしいことが、私の方のこれでは分かっていきよるという意味のことなんです。
 ですから、こういう素晴らしい文章でも出来れる方ですから、本当におしいなあと思わせて頂いたら、やはりお願いをしなければおられない。お願いをすれば、やっぱり私が思うた通りに、いうならば教会という所は、どういう難儀な問題でも持ち込まれれるだけの力を受けなきゃならんけれども、ちょっとした事はお願いが出来るけれども、大きな事はね、ちょっとした病気のことはお願いが出来るけれども、大きな病気のことは、もう病院に行かにゃならんといったような教会では、ね、本当のお役に立たないんだ。
 それで折角そこのご信者さんが、「おかげの泉」をそこへお金を渡して、ここから送っておるわけですから、いうならば今日あたりのようなところの御理解を身につけられて、お徳を受けられる信心になられたらです、いよいよ神様の願いであるところの大きなおかげも、ご比礼も立つ教会だと思わせて頂くから、願わなければおられないというような心がです、自然と開けてくるのです。それが実は有難いのです、自分ながら。ね。
 皮肉を言われたというて顔色を変えるよう事では、だからいけない。けれどもです、そこからそれに取り組んで、それを今の合楽では、表行はもういたしませんのですから、そのことを修行と思うて頂いていくようなおかげを頂いていかなければいけないということです。
 信心に修行はつきものですから、ね。その修行をです、だから不平不足を言わんですむ修行とか、ね。只今申しますように、腹の立つようなことを言われても、または皮肉を言われても、かえって相手のことを祈り、願えれるような心の状態を開いていく稽古をしなければならない。
 そういう信心に私は、身に徳が受けられるということになり、身しのぎが出来るようなおかげが受けられると。遠路のところを参って来る。この寒いのに、こういう早うから、皆さんが合楽、合楽と言うてお参りをされるのだから、ただお参りをした、お願いをして来たといったようなことではつまらん。信心して徳を受けてと。徳を受けて行けれる道。そして自分で身しのぎの出来る、いうならば自分の心も自由自在に使えると同時に、おかげもまた自由自在な、不自由のないおかげの世界に住まわせて頂けるようになれ、というみ教えであると思います。身しのぎをするようになれ、とこうおっしゃっとる。
 だから身しのぎの出来るような信心。それには徳を受けなければならない。徳を受けるためにはです、今私が申しますような、本気で、心行ということは、本気で自分の魂を磨こう。本気で日々の改まりを第一としよう。改まっていこうという願い。その改まり方、磨き方をここでは教えて頂くのだ。それが有難いのだ、楽しいのだということになってこなければならんということです。
 ただお参りをして、お願いをして来たというだけではつまらんじゃないかということなんです。折角、遠路のところを参って来るのであるから、身に徳がついていくことを自分で感じれれる、信心がそれだけ深こうなっていく、手厚うなっていくということ。そこに身しのぎが約束される。そういうおかげを目指しての朝参りでなからなければならないということであります。ね。
 どうぞ、身に徳を受けていく、折角、お参りをするのですから、この願い事が成就することのためだけのお参りではなくて、その難儀というか、願い事というか、それを通してお徳を受けていく信心に心を傾けていくということ。それはどこまでもやはり、本心の玉を磨くことが、また改まっていくことを修行と心得て、信心を進めていかなければいけません。ど〓ぞ。